空犬通信

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「書店ゼロの自治体」云々の記事とその記事への反応について、さらに思うこと【更新】

先日、「書店ゼロの自治体、2割強に 人口減・ネット書店成長」という8/24付朝日新聞の記事を受けて、このような文章を書きました。「「書店ゼロの自治体、2割強に」なって大変……でも、大事なのは、じゃあ、どうするのか、なのではないかなあ、などと思う」


(以下、長くてだらだらした、中身の薄い独言です。)
(9/14:少しだけ追記しました。)




ぼくは、本と本屋さんを心から愛し、切実に必要としている人間の一人として、自分の暮らす街や、本好きのみなさんが暮らす街には本屋さんがあってほしいと願っている者です。ですが、そのような考えの持ち主にも、本屋のおかれている厳しい状況に一見同情的な内容のようでいながら、本屋をとりまく現状を数字でまとめてしまう(平均で1日1店閉店とか、書店ゼロ地域が何割とか)このような悲観論には、共感も同意も感じられません。むしろ、あまりにも頻繁かつ執拗に出版不況、書店不況が強調されることで、(主に業界外の人から)あきれられてしまったり、反発を持たれてしまったり、離れられてしまったりしないか、そのことのほうが心配になってしまいます。


だから、朝日新聞のあのような記事が出た後に、間をおかずにこのような記事が出てきたのは、ある意味当然なことのように思えるのです。「「書店ゼロ」を嘆く意味がわからない」(8/25 BLOGOS)


《書店がなくなることをもって「文化拠点の衰退」とまで言え》るのかというこの文章の書き手の方の指摘に対して、感情的にはともかく、論理的に反論することはできないだろうと思ったのでした。


「文化拠点の衰退」云々を持ち出した時点で、(あえて自分も含めてという意味でいいますが)本屋さんを大事に思い、これ以上減ってほしくない、減少傾向をなんとかしたいと考えている派はちょっと負けている感があります。あたかも商売の話を捨ててしまっている感じがするのです。だって、文化以前に、商売ですからね。本屋は。出版社も本屋も営利企業ですし、出版業も書店業も文化事業ではなく商売なのに。


今回の朝日新聞の記事はまさに典型かと思いますが、出版不況や書店の苦戦の話になると、必ずといっていいほど、文化云々の話が持ち出されます。


たしかに、「本」にそのような文化的な側面(という言い方もあいまいで嫌ですが、とりあえず)があるのはたしかだと思います。「本」は、知識や伝統や歴史を伝えていくのに簡便で信頼できる容れ物ですし(少なくともこれまではそうでした)、教育に使われる主要なツールでもあります。デジタルアーカイブが概念としても技術的にも存在しなかった時代から長らく「本」は存在し続け、その高い情報保持性と耐久性という特質を活かして、多くのことを後世に伝えてきたわけです。


そのような信頼性の高い容れ物=「本」があったからこそ、我々は何百年も前のことを知ることができているわけです。その容れ物とそれを売買する場を「文化」云々と呼びたくなる気持ちはわかりますし、それほどおかしなことでもないとは思いますが、ただ、それは「本」のもつ、一側面でしかありません。少なくとも、現在、書店で売られている多くの「本」の本質はそこにはないように思います。


文化云々を持ち出したら、数百円で、いっときいろいろなことを忘れて楽しい時間を過ごさせてくれる、1冊の漫画本や週刊誌やエンタメの文庫本はなんなのか、文化的な価値や文化的な役割はないから、「本」ではないのか、「本」としては劣るのか、などなどの、なんだか嫌な方向に話が向いてしまいかねません。それでなくても、ある種の本、特定のジャンルの本に線引きをしたがる(たとえば、本の軽減税率を考える際にある種のジャンルを除外するとか、コンビニなどでの区分陳列の問題とか)人はすでにたくさんいるわけですからね。



話が脱線気味なので、戻しますが、書店が必要なのは、文化云々と関係があるのかどうか。自分が興味のないジャンル、興味がないわけではないけれど特別な思い入れのないジャンルの世界の話に置き換えて想像してみればあきらかですよね。


「少子化とスマホで売上が下がって大変だ」
「文化の拠点として守らなければいけないんだ」
そんなふうに言われて、よしわかった、と、そのジャンル(服でも生鮮魚でもなんでも具体例を思い浮かべてみてください)のリアル店舗に通うようになるでしょうか。そのジャンルの商品を今よりも熱心に買うようになるでしょうか。


業界が苦しいから、などと言われても、そんなことは多くの消費者には関係がありませんし、まして、「文化」など持ち出されたからといって、特定のジャンルのお店に通ったり、そこでお金を落としたりしたくなるような奇特な消費者は、文化論を持ち出したがる人たちが考えるほど、そんなにたくさんはいないだろうと思うのです。


文化の拠点保持のために●●に通おう、■■を買おう。
業界が苦しくてこのままでは立ち行かなくなってしまうから、●●に通おう、■■を買おう。
……そんなことをいくら大新聞やメディアがこぞって訴えても、●●にせっせと行く気になったり、■■を買う気になるはずがないだろうと思うのです。それでも、自分の愛する世界、自分の関心が向いている世界なら話は違うかもしれません。が、それが、自分にとって、必要なときに行ったり買ったりはするけれど、特別な思い入れのないものだったり、そもそも興味のないものだったりした場合はどうでしょうか。


大変だの文化だのなんだので人は本屋に行くようにはならないでしょう。
人を書店に向かわせるのは、文化云々ではないでしょう。
人を書店に向かわせるのは、出版不況、書店不況云々でもないでしょう。
人を書店に向かわせるのは、魅力的な品ぞろえと魅力的なサービス、それらでしかあり得ません。
人を本に向かわせるには、魅力的な商品をつくって提供すること、それしかないと思うのです。


文化云々は、いま現在、それをつくったり売ったりしている人が言うことではない。後世の人が、それが文化たり得るものだったのかどうかを判断すればいいのだと思うのです。


ぼくは、「町には本屋さんが必要です」会議の活動に関わったくらいですから、「町には本屋さんが必要」だと、本気で考えています。でも、それはぼくが「本」が好きで、ぼくには「本」が必要なので、その大好きなもの、自分にとって必要なものを買える場所が必要だから、です。


ぼくは、これからも、これまでと同じように、せっせと本屋さんに通って、たくさん本を買うつもりです。文化を守るとか、そんなことは関係なく、自分が好きだから、そうするのです。


で、心ひかれるフェアや、好みの棚や、すてきな店員さんや、おもしろフリペに出会ったら、ブログやツイッターで、こんなすてきな本屋さんがあったよ、と、これまでと同じように、せっせと紹介していこうと思います。そして、そのような本屋さんで出会った本たちのことを、一人でも多くの本好きの目に留まればという思いで、ブログやツイッターで紹介していこうと、そんなふうに思うのです。


前回の記事のタイトルに、《大事なのは、じゃあ、どうするのか、なのではないかなあ、などと思う》と書きました。ささやかすぎて、何が変わるとも思えませんが、でも、これがぼくの「じゃあ、どうするのか」なのだろうと、自分では思っています。


そして、「じゃあ、どうするのか」という意味では、そのような思いから新しいことに取り組んでいる例も、新聞やメディアにはぜひ、無書店の話題以上に熱心に取り上げてほしいなあと、そんなふうに思うのです。


「無書店地域」(個人的にはあまり好きなことばではないけれど、とりあえずそのまま使うとして)をどうするのか、そのようなエリアにどうしたら本を届けることができるのかについて、できることをやってみようということで、さまざまな試みに取り組んでいる人たちがいます。たとえば。先日、新聞に掲載されたこの記事に目を留めた本好きはけっこういるのではないでしょうか。「本屋がバスでやってきた 無書店地域で少量取次や販売」(8/28 日経新聞)


本のリユースで知られるバリューブックスが手がける移動書店「ブックバス」、1冊から注文できるという大阪屋栗田の異業種向け少額決済サービス「ホワイエ」が紹介されています。


また、次の記事では、離島に本を届ける新刊書店の活動が紹介されています。「島の本屋さん」をご存じですか。」(8/9 琉球新報Style「沖縄県産本☆ バックヤード便り2」)。沖縄・那覇の書店、リブロ リウボウブックセンター店が、本屋のない離島にも本を届けたいということで、年に3回、南北大東島で移動書店を開催していることが紹介されています。


どれも、(主に本を簡単に手にすることのできないエリアの人たちに)書店店頭での従来の販売とは別のかたちで本を届けるための取り組みです。このような取り組みこそ、もっとメディアに取り上げられてほしいなあと、そして、多くの人、とりわけ、本の世界で糧を得ている人たちに共有されるといいなあと思います。自分たちに何ができるのか、他にできることはないのかを考えるのに、またとない刺激と参考とになるのではないかと、そんなふうに思うのです。



追記(9/14):この記事をアップした直後に、記事の内容にテーマ的に関連のある新聞記事が複数目につきましたので、ふれておきます。まずは、こちら。「「本屋さん」北海道走る=書店ない地域、ワゴン車で」(9/11 時事ドットコム)


《書店のない自治体が約3割とされる北海道を、約800冊の本を詰め込んだワゴン車》で訪問し、訪問先で本の販売をしている「走る本屋さん」が紹介されています。運営は一般社団法人「北海道ブックシェアリング」で、《販売だけにとどまらず、書店がなく図書館の整備も不十分な自治体の住民から、読書環境の改善に向けたニーズや課題を聞いて回っている》とのことで、《本が少ない環境の改善に一役買っている》とされています。


もう1つは、本稿執筆のきっかけになった朝日新聞から、また書店関連の記事です。「個性派書店、出版不況なんのその 「小商い」に活路探る」(9/9 朝日新聞)。当方の記事の前日に出たものですが、目にした時点ではすでに記事を書き上げていたので、後での紹介となりました。


《書店が減るなか、小規模でも特色のある本を売り出す「小商い」で、活路を見いだそうとする人たちがいる》という書き出しで、そのような工夫をしている《小さな書店》の例として、東京・荻窪のTitleが、店主辻山さんの写真入りで紹介されています。


Titleのような、個人が新刊書店を立ち上げ、それを堅実に維持できている例を紹介するのはとてもいいと思うのです。ただ、お店を紹介するときのポイントがちょっと気になりました。


記事のタイトルが《個性派書店、出版不況なんのその》で、文中でTitleの品ぞろえにふれているのは、《個人編集の雑誌を積極的にそろえる》だけとなると、同店の様子を知らない人には、いわゆる典型的なセレクト系=個性派の店であるかのように伝わってしまわないでしょうか。そんなことが心配になります。もちろん、同店を訪問したことのある方には説明不要ですが、辻山さんの店は、そのような店ではまったくありません。


辻山さんの店のすごさは、《個人編集の雑誌を積極的にそろえる》ことではないと思うのです。それは同店の個性の1つではあるでしょうが、1つだけを取りだして言うようなことではないように思います。棚に並ぶ本に、本の並べ方に、などなど、店内のあちこちに辻山さんらしさが出ているのに、店主の独りよがりにはまったくなっていなくて、『コロコロコミック』のようなコミック雑誌も、コミック単行本の新刊も、女性誌などの雑誌も、文庫も実用書も、児童向け図鑑もふつうに置いている街の本屋さんとして、きちんと機能しているところにこそあるのだと、そのような店を、あの立地できちんと成立させていることにこそあるのだと、個人的には思っています。


「個性派」だけをよしとするような風潮は、それはそれでどうなのかなあ、という気がしないでもありません。「個性派」と呼ばれるようなお店があって、それが一部の人たちに魅力を発揮し得ているのだとしたら、それは(マイナスの意味ではない)「ふつう」があるからこそのことではないか、「個性派」が輝いたり目立ったりするのは多くの「ふつう」があるからではないかと、そんなふうに思うのです。


そして、個性派云々だけでは、たとえば、ぼくが愛してやまない本屋さんの一つ、東京・西荻窪の今野書店のようなお店のすばらしさを説明できないのではないかと、そんなふうにも思うのです。


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